Ling Yangに関する覚書

Ling Yangは、クラーク・アシュトン・スミスの"Chinoiserie"に登場する人物名である。
この場合、Yangのほうが姓であり、つまりスミスは東洋人の名前にも欧米式表記を当てはめていると考えるのが適当だと思しいが、一応確認してみた。

アトリエサード『魔術師の帝国 1』の巻末著作リストを参照すると、"Chinoiserie"の初出は1931年である。
これに続く1932年に発表された『混沌空間』には、登場する日本人の名前としてIsho Sakamotoという表記があらわれており、この時期のスミスが明らかに欧米式表記を当てはめていることがうかがえる。

漢字で表記するならば、妥当なのは楊灵あたりだろうか。

 

 

仙髪渓谷に関する覚書

注:以下の文章は、わたしが中学生のころ友人から又聞きした話を記憶を頼りに書きとめた、単なる覚書にすぎない。

 

■仙髪峡谷概要
東北地方に連なる険しく霧深い、木々に覆われた山々にある切り立った峡谷。その奥深くには、一年を通して昼夜霧がひときわ濃くわだかまり、底を見通せぬ領域がある。
近隣の寒村:絹畑村の人びとはその領域を「雲の胎」と呼びならわし、寓意をふくんだ民話や迷信があまたに伝わっているほか、突拍子もない空想譚も生まれている。いかさま神秘に満ちているようだが、このご時世すでに調査はされており、気候条件と地形条件のために必然霧深くなってこそいるものの、本質的にはなんら変哲のない峡谷であることに相違なく、まかり間違っても「化物が出た」などという話はない。
しかし辺鄙な地であるがゆえに峡谷を渡るための橋もかかっておらず、周辺の山には道もまともに整備されていないがゆえに濃い霧と深い森に迷う可能性が高く、あげく絶壁から転落する危険もある難儀な地であることに違いはなく、今日日通行人はほとんどいない。

 

■絹畑村と仙髪峡谷のかかわり
そもそも絹畑村やその他の村落の住民が、仙髪峡谷にむかうことはめったにない。山菜採りや狩猟をおこなうにしても、霧深い山のやたら奥まで立ちいりはしないのが常である。「雲の胎」があるところまで辿りつく者は、遭難か度胸試しかのいずれかといってもよい。そんな有様であるがゆえに、想像力ばかりがやたらと刺激され、さまざまな空想的な逸話を生みだすに至ったと思しい。

 

■絹畑村およびその周辺の民話
寓意をふくむ教訓話は抜きにして、興味深いものだけをしたためておく。

①谷に響く叫喚
「雲の胎」に響く奇怪な音にまつわる逸話。霧のなかには化物が潜んでいるのだという迷信の根源と思しい。実際には峡谷に吹く風の反響かなにかの聞き間違いだろう。絹畑村から「雲の胎」まではそれなりの距離があり、前述した通り霧が濃いうえに獣道同然である。あえて確かめにゆく者もいないのが現状。

②鬼
地元での呼ばれ方は定かではないが、ともかくむかしから「雲の胎」にはなんらかの妖魔が潜んでいるという言い伝えが根強く残っている。恐らく上記の民話もこれに結びつくものだろう。ここではひとまず鬼として書きとめておく。鬼というのは元来この世ならざるものをあらわすものであるし、かまわないだろう。
さて、絹畑村近くの山あいには、かつて和人と交わらぬか敵対的だった蝦夷の一族が住んでいたらしい。妖魔の伝承も、元を辿ればこれら蝦夷への素朴な恐れと差別が生みだしたものである可能性が高い。
余談だが、この一族にかんしては、アニミズムから特異な派生を遂げたなにやらん一風変わった習性があったらしい。しかし典拠となる文献はあいにく見つかっていないので、友人が当時今より妖怪や地方風習に熱心だったわたしを喜ばせようと盛ったのではないかと疑っている。

③化物狸
上に掲げた妖魔伝説となにかしらのかかわりがあるのか、それともまったく独立した事柄なのかはわからないが、要点だけ押さえると、通常の狸にもまして醜く、肥え太り、短足の畜生が群れをなす姿が、ときたま山奥で見かけられるという。なるほど、陸奥国風土記逸文には化物狸を成敗した話が記されている。

④失踪事件
1897年のこと。堺庄吉という男性が、山菜を採りに山に入ったきり帰ってこない事件があった。
夜になっても帰ってこず、陽が登るのを待って村人たちが捜索にむかうと、山をやや深くまで分け入ったあたりに、彼の山菜籠が発見された。

また、その近くには殴り殺されたらしい一頭の貉の死体があったが、これがなんとも不快感を覚えさせる醜いもので、短い脚の先には肉球の代わりに繊毛がびっしりと生えており、上向きになった爪は、普通の種に比べてかなり鋭く大きかったという。
この貉の死体は持ち帰られ、現在でも骸骨として絹畑村の民家で見られるらしい。また聞きなので不正確なこと甚だしいが、あるアマチュア学者の見立てでは、脚の骨格には貉というよりむしろ猫のそれに似た特徴があったそうだ。

庄吉を探していた村人たちは、やがてあることに気づく。北にむけて草がかき分けられた、幅5尺ほどの道のようなものが続いていたのだ。まるで巨大な蛇が這いずった痕跡のようで不気味ではあったが、そのあとを追っていくと、かなり長い時間を歩いた末、あろうことか「雲の胎」を眼下に臨む峡谷の縁に辿りついた。そして崖を覗きこんだ村人のひとりがあることに気づく。崖には、四本の爪が食い込んだような規則的な小さな穴と、球状の粘っこい濡れ跡が無数についていた。

庄吉の姿はどこにも見当たらず、日も暮れてきたことから村人たちは引き上げる。その後、彼の足取りは掴めないままだった。

 

妖蛆に関する覚書

先日、吉祥寺の古本屋をふらついていたら『ネクロノミコン』を見つけた。

当然本物ではないが、なかなかロマンティックな体験だった。じっさいに見つけて購入したのは、ジョージ・ヘイ編、大瀧啓裕訳による『魔導書ネクロノミコン』の学研M文庫版である。

クトゥルー神話小説において、古書店に『ネクロノミコン』など禁断の書物を求めにいく人物といえば、「星から訪れたもの」のロバート・ブレイクと、「本を守護するもの」の語り手が思い浮かぶ。結局『ネクロノミコン』を手にすることはなく、前者は『妖蛆の秘密』を、後者はネクロノミコンより恐ろしい禁断の書を手に入れたわけだが。

古書店で売られていることが確認される禁断の書は、ほかに『黄衣の王』がある。カール・エドワード・ワグナーの「また語りあうために」でこの記述を読んだときは、わたしが個人的に黄衣の王を気に入っていることもあり、思わず「おお」と声を漏らした。

話はまったく変わるが、東京創元社の『黄衣の王』の暴騰ぶりがすさまじい。今確認したところ、Amazonのマーケットプライスで9261円である。
そういえば、原典の "The King in Yellow" は、黄衣の王とまったく関係ない怪談や恋愛ものも含めた全10篇の短編から構成されているが、東京創元社版は、黄衣の王にかかわる短編4篇と、怪奇長編「魂を屠るもの」からなる独自の構成をとっている。夢のまた夢であろうが、いつか完訳版を手にできたらと思う。

話はまた戻って、今度は『妖蛆の秘密』について。というか、こちらが本題。
『魔導書ネクロノミコン』を読んでいたら、225頁に「妖蛆」に「ようそ」のルビが付されているのに気づいた。「蛆(そ)」はなるほど正しい読み方ではあるが、「妖蛆(ようしゅ)」読みをはじめたのは他ならぬ大瀧啓裕氏であるから(出典は『図解 クトゥルフ神話』61頁コラム)、一瞬首を傾げた。
学研M文庫版『魔導書ネクロノミコン』の出版年は2000年であり、新書版は1994年に刊行されている。他方、はじめて「妖蛆(ようしゅ)」読みが提唱されたのはそれより前になるから、もしかして読み方を転向したのか、と思ったが、2006年に刊行された『ラヴクラフトの世界』の「ヴァーモントの森で見いだされた謎の文書」では「妖蛆(ようしゅ)」読みになっているから(482頁)、単純に学習研究社の担当編集者の方針かなにかで、通常の読み方のルビが採用された可能性が高い。

妖蛆の秘密』は、スティーヴン・キングがことのほか気に入っているように思う。「呪われた村<ジェルサレムズ・ロット>」に物語の根幹にかかわるアイテムとして登場し(訳語は『うじ虫の神秘』)、まだ読んでいないのだが、なにやら最近の長編にも重要な役割をもって登場するらしい。

クトゥルー神話における著名な禁断の書物といったら、ラヴクラフトの『ネクロノミコン』、スミスの『エイボンの書』、ハワードの『無名祭祀書』、そしてブロックの『妖蛆の秘密』が思い浮かぶだろう。
しかし、ラヴクラフトの『ネクロノミコン』は、皮肉なことに単純に使うにはあまりにも有名かつ典型的になり過ぎた。また、スミスの『エイボンの書』は執筆時期とあつかう内容が遥かなヒュペルボレオスというあまりにも壮大にして独自的なものであるから、目的がスミスの世界を描くこと、あるいは禁断の書で埋め尽くされた本棚を飾ることにあるならともかく、あくまでみずからの色を前面に出しながら、主要なアーティファクトとして用いるのはきわめて難しい。そうなると、残るは『無名祭祀書』と『妖蛆の秘密』となる。ここからは好みの問題といえよう。

有名的・お約束的になり過ぎず、あくまで自作品の色を保ったまま、しかし神話愛好家――神話を息づかせる新しき存在・解釈・展開・世界観の創造を大いに好むが、懐かしきアイテムが歴戦の古強者のごとく颯爽と登場し、新たな神話の創造に一役買うのも同様に愛する人びと――には快い目くばせを送れる禁断の書として、『妖蛆の秘密』は今その魅力を新たな形で高めつつあるのではないか。

セレファイスの主に捧げる賛歌

〈時間〉の縛鎖より解放されし 妖精の舞う常つ国――
幻夢の集うカルコサ 華やかな光彩に満ちたテロエ
蜃気楼の涯に煌めくアイラ 永遠に絶佳なるソナ=ニル
数多の驚嘆と瑰麗の地を仄見てなお
夢見る人が格別の賛辞を惜しまぬは
貴方の創りたもうた都なり クラネス王よ
黄衣の王と語らい 這い寄る混沌に認められた
人の身を超えし夢想の主よ
貴方の都セレファイス 目くるめく夢の精華にして
粋美を凝らした尖塔群と おしなべて輝く顔容の民草を
絢爛たる衣と纏う 地球の幻夢境一の楽園に赴きし衆生
息という〈物質〉の身ならではの仕草を恥じらう

余はむかし
いまだ夢想の魅を知らざるか 記憶の淵からも取り落としたころ
人の世に在りし日の貴方が 慰みにつむいだが
心なき友の嘲り受け 絶えて捨て去った夢の綺想譚を
たまさか手にとり 瞬きを忘れて読み耽りたり
爾来余は 貴方の幻夢に魂を奪われ
抜け殻たるこの身は 幾度も夢見を志すも
澱んだ心は終に 夢のとば口にすら至らず
歳月に穢れたこの身を打ちのめすは 虚しき覚醒の朝日
玲瓏をきわめた夢の都にあってなお
貴方は故郷を懐かしむが 余に愛おしき里は在らず
憂えるこの身が帰りつくは 過去も美も欠片ほどもない
醜き灰色にくすんだ 生ける廃墟なる街
嗚呼 魔性の局外者よ
肉眼の世の外に憧るるも 喘ぎ伸ばす手はとばりを掠めもせぬ
今の余はそれでも 貴方への畏敬を憶えてやまぬのだ

Cthulhu Spawnに関する覚書

個人的な覚書。公開せずにWordにでも書いておけばいいのかもしれないが、なんとなく。

 

ラヴクラフトの『狂気の山脈にて』にあらわれる単語 "Cthulhu spawn"。

ふとこの英語表記を見たとき、「クトゥルー星からやってきたクトゥルー星獣」のイメージが浮かんだ。思いついた瞬間に噴き出してしまったが、この作品でのクトゥルーが概ね宇宙生命体の一種として描かれていることを踏まえるに……などと愚考している。

 

『狂気の山脈にて』のクトゥルーといえば、ミ=ゴともども「既知の時空連続体の外からやってきた」ことや「われわれの知る物質とは異なるものによって肉体が構成されており、変形や再生ができる」などの事柄が古のものどもによって書き記されているが、これはダイアー教授の分析において、おおむね否定的に受け止められている。根拠を要約すると、「己が種族の歴史に矜持を抱いていた古のものどもは、出来事を書き残すにあたり、生半な理由で戦争に負けた=自分たちが劣っていたとは記しがたく、『敵が異次元の存在でどうやっても肉体を滅ぼし得ぬ手に終えないものだった』という都合のいい理由をでっちあげた」というものである。この記述はクトゥルー神話にのめりこめばこむほど興味深い。

前者はともかく、後者については『クトゥルーの呼び声』のヨハンセンの手記や、(クトゥルーそのものではないにせよ)『墳丘』のクナ=ヤンの民についてしたためたサマコナの文書はどうなるのか……と言いたくなるが、あれらは異常な状況下における一人称視点の産物なので、「信頼できない語り手」の要素が含まれているといえる。

もっとも、ダイアー教授が「文明の進んだ種族=自分たちより優れた種族について古のものどもが言及していない」ことのみを論拠として穿ちすぎた解釈をしているのだ、と論ずることも不可能ではあるまい。

さらに、『暗闇に囁くもの』を読む限り、ミ=ゴの肉体は(エイクリーがそそっかしい過ちを踏んだのでなければ)写真に映らないという特性をもつものの、変形や再生が可能とは考えにくい。そのため、「クトゥルーに続く二度の敗北、しかも自分たちとさしてサイズの変わらない奴ら相手に(恐らくは)技術力で負けたなど許されない」と考えた古のものどもが、ミ=ゴもクトゥルーと同じように再生や変形ができたのだ、と捏造した可能性もあり得る。この場合、「古のものどもによる事実の歪曲」と「クトゥルーは再生や変形の力をもつ」の二つが矛盾なく両立するだろう。

長々考えこんできたが、『狂気の山脈にて』が、S・T・ヨシ氏曰く「脱神話的」、大瀧啓裕氏曰く「ラヴクラフト宇宙観の総決算」といえる作品であることは、間違いなく念頭においておくべきだろう。