篠田英朗先生の4月22日付ツイートへのリプライに対する疑問と加藤節先生批判の検討

 本文のまえに、私は篠田英朗先生はじめ、この文章中の如何なる人物とも面識を持たない、ただの一読者にすぎないことを、予めお断りしておきたく思います。もちろんこの文章は、私が勝手に執筆したものです。

 

 

 

 この篠田英朗先生のツイートに、先生が以前統一教会関連団体の取材に応じたことを糾弾するリプライが見られますが(2023年4月25日現在)、そのような批判はおよそ適切なものではありません。学者は寄稿・出演した媒体それ自体によって裁かれるべきではなく、批判者が検討すべきはその主張の妥当性です


 あなたは篠田先生の読者であるからこのような擁護をするのだろう、と、私の公平性に疑義を呈される向きもあるかもしれません。しかし私は同様に、ウクライナ戦争関連において個人的に同意しかねる主張を述べておられるX先生が、複数のいわゆる宗教関係の雑誌に寄稿したことそれ自体を問題視するつもりはありません。この点に関してはむしろ、ある軍事専門家が(この方には敬意を払っていますし、日ごろの主張もおおむね一致するところです)、X先生が宗教雑誌に寄稿したことそれ自体を難じていることに違和を感じると言わざるを得ません。


 以上を踏まえたうえで、私は、無学で、専門家でもない非才の身ではありますが、当該ツイートにおける、篠田先生の加藤節先生に対する批判をむしろ検討いたしたく思います。なお、以下の文章はすべて、篠田先生への満腔の敬意、非専門家である私が愚考を申し上げる僭越への恐縮を踏まえたうえで書かれているものだとお考えください


 おこがましい推察になりますし、誤っていたら申し訳も立たないのですが、恐らく篠田先生の仰る「負の遺産」とは、「東大法学部の系譜に属する加藤先生がジョン・ロック研究の第一人者であったために、立憲主義の解釈について「政府を縛る」点ばかり強調され、いわゆる「ガラパゴス化」を進めてきた」ということではないでしょうか。


 仮にこれが事実だとして、確かにそのような解釈は、篠田先生の「安全保障」という点を重視する立憲主義の解釈と完全には一致しないでしょう。


 ロックのテクストを一読する限り、「政府を縛る」ことと「安全保障」は両立します。

 ある学者が、自らの解釈のみが妥当であると主張し、異なる解釈を、その権力を行使して「潰してきた」ならば、それは問題です。けれども、その事実が明確に立証できないのであれば(※)、異論者にとって最もふさわしい態度は、「これまでは○○のような見解が通説であったが」と述べた上で、自説を冷静に論じることであると愚考します。

 

 当然、既存の学問に対する批判は誰にでも開かれています。しかし主張のなかに過剰な修辞や感情が入り込むことは避けなければならないというのは、「憲法学者」批判を通じて、恐らく先生がいちばんよくご存じでしょう。篠田先生の主張が非常に興味深く有意義なものであるだけに、私は先生がそのような事態に陥ることを強く恐れるのです。そのため、いわゆる「東大憲法学者」「反米高齢者」の悪魔化は是が非でも回避し、いつかブログで仰っていた「敬意を持って批判する」ことを続けていただきたいと、差し出がましいことは重々承知のうえですが、先生を深く尊敬する一読者として、衷心よりお願い申し上げる次第です。

 

 私は立憲主義について、「安全保障」と同時に、「政府を縛る」側面も大変重要だと考えています。そのことに関して、集団的自衛権の容認そのものには反対しませんが、そのプロセスには――それが「最初から禁じられておらず、ゆえに改憲の必要はないもの」だったとしても、従来受け入れられてきた政府解釈を変更したという意味で――なお詰める余地があったのではないかとも考えています(たとえば、安保法制を明確に争点化した解散選挙など。2014年の衆院選について、安倍元首相はアベノミクスを争点に打ち出していたと記憶しています)。

 この「戦後憲法学」批判という問題に関して、私のような者が意見すること自体、(いつぞやの「ナチの政策に良いものなどひとつもなかった」という学問的に裏付けされた主張をめぐって浮き彫りになった)「専門家に噛みつく無知な素人」というきわめて品のない態度であるのかもしれません。ですがその愚を冒しても、このような文章を執筆いたしました次第です。

 

 御高著をこれからも楽しみにしております。

 

※この点に関しては、「主流解釈への「忖度」が暗に形成されていた可能性」という、大変難しい問題がつきまといますが、それだけに慎重な姿勢が必要でしょう。

『魂を喰らうもの』

 ヘンリー・カットナー著・海野しぃる訳『魂を喰らうもの』(綺想社)

 

 ヘンリー・カットナーのクトゥルー神話作品が集成された。しかも「境界の侵犯者」や「狩り立てるもの」などの名作に加えて、長らく未訳であった作品も収録されている。これを慶事と呼ばずして何と呼べばよいだろうか。

 カットナーの作品は、昨年『ロボットには尻尾がない』が竹書房より出版されており、また『大宇宙の魔女』にはC・L・ムーアとの共作が収録されている(「ハイドラ 魂の射出者」に言及される「暗黒のファロール」という存在は、『大宇宙の魔女』収録の「シャンブロウ」が初出である)。さまざまな側面を持つ作家であることは一目瞭然で、そのことは本書に収録されたクトゥルー神話作品にも色濃く反映されている。

 『真ク・リトル・リトル神話体系3』の解説で、那智史郎氏は「カットナーの神話作品は、これまた<ラヴクラフト・サークル>の諸先輩作家の作風をちゃっかり借用しているようにみえて多彩である」と論じているが、こうして集成されたカットナーの作品を通読すれば、たしかに共通する面もあるにせよ、彼独特の魅力もまた見出せるだろう。

 たとえば、表題作「魂を喰らうもの」で告げられるヴォルヴァドスの言葉、そして主人公の悲壮な覚悟(訳者の海野しぃる氏は「人間讃歌は勇気の讃歌」という、『ジョジョの奇妙な冒険』にも通じる姿があると論じている)。「闇の接吻」「境界の侵犯者」にも垣間見える、格別腕力に優れるでもない脆弱な人間が、恐怖と苦痛の極限のなかで一瞬きらめかせる生の輝きには、思わず胸の高鳴りをおぼえる。

 無論、恐怖の描写も卓越している。本書のトリを飾る「恐怖の鐘」「ハイドラ 魂の射出者」「狩り立てるもの」は特にそうだ。ポウの「早すぎた埋葬」を思わせる二作品が最初と最後に来ているのも面白い。また、「蛙」は「ダニッチの怪」を想起させるモンスター・パニック作品だが、無辜の村民が怪物に襲われるシーンはあまりに生々しい。ここには「墓場の鼠」や「恐怖の鐘」、さらに「闇の接吻」における肉体的描写にも通じるものがあるだろう。先に述べた「一瞬きらめかせる生の輝き」を踏まえれば、カットナーは人間の生命とその感覚をリアルに描くことに優れていた、ともいえるのではないか。

 そして素晴らしいのは、海野しぃる氏の翻訳である。C・A・スミス「驚嘆の星」、R・E・ハワード『叛徒たちの海』のころより感銘を受けていたが、今回も期待にたがわず、なめらかで読みやすく、活き活きとした、確かな文章力に裏打ちされている真摯な訳文であった。とりわけ「ダゴンの落とし子」など、90年近い時の懸隔を軽々飛び越えてくるようだ。そこからは作者への敬意、神話への愛情が手に取るように伝わってくる。氏は本邦におけるクトゥルー神話翻訳者/研究者のホープである。次世代の担い手筆頭として、斯界からの注目は必至だ。さらなる活躍を願ってやまない。

 

お求めはこちらから。

カットナー クトゥルフ大全『魂を喰らうもの』 - 書肆盛林堂